
世界が尊敬する武士道精神とはなんなのか?サムライスピリットとは?
13年8月6日(火)配信: fs宿曜無料占い
今、海外から日本の武士道精神(サムライスピリット)や仏教、禅などの注目度・関心度が非常に高い。しかしなぜ武士道精神なのか?現代日本人の目からは武士道精神・サムライという言葉に堅苦しさ、気難しさを感じるのではないだろうか。今回は、そんな武士道精神の世界を西洋・欧米文化と比較しながら紐解いていきたい。
まず武士道精神とは武士を意味する言葉ではない。自分自身の心と向き合う強さを表す事であり、他者を力ずくで圧倒することではない。これは日本の美学であり、心の姿勢を表す道徳心である。
この精神は、仁、義、礼、智、信、忠、誠に基づいており、サムライだけなく女性にも子供にも万人に与えられる精神であり、この精神の中で人を区別・差別する事はない。
西洋では外界に対して、美しさをアピールするのに対して、日本の武士道精神・美は、自己規律の精神であり、内面の美しさを表しています。
そんな武士道精神は、以下の7つから成形されています。
「仁」情けを表し、たとえ敵でも相手に情けをかける。
「義」フェアプレイを表し、たとえ勝負に勝っても不正行為で勝ちえた勝利は賞賛されない。
「礼」他人に対する思いやりを表し、相手に見える形で表す。
「智」物事の本質を見極め、常に切磋琢磨し、より良い手法を得ようとする心得。
「信」信じる強さ・信頼を表し、本来の日本では契約という概念なくしても口約束で十分事足りる。
「忠」愛する者への自発的忠誠心を表し、これは強制されるものではない。尊敬していない上司、主に服従、愛する行為を忠とは言わない。したがって尊敬していない者、愛してしない者への忠誠心は存在しえない。
「誠」言+成=言った事を成す。とした意味があり、一度でも口にした事は命がけで守り、守れなければ死をもって償う。すなわち「信」が成り立つのは、「誠」あっての事。
このように武士道精神とは、人が人として美しく生きる姿勢にあり、自己規律と自立を促す基礎であると言えます。
サムライの基本となる武士道精神とは人が人として生きる道を説いています。
よって無用な殺生はせず、よほどの状況にならなければ刀は抜きません。
ただ刀を持っているだけではサムライとは呼べないのです。
古来の日本文化では、男、女、子供、階級、年齢、に関係なく平等に礼儀を尽くす精神が存在していた。会社の語源は神社であり、古き時代の会社とは神社あたる。そこには巫女を含め男女が分け隔てなく働いている風景が当たり前のように存在していました。ゆえに神主の性別に決まりはありません、女性の方が繁栄すると喜ばれる神社もあったほどです。
また女性武将やくノ一は差別された存在ではなく社会の中で認められた存在でありました。これは生き様・生き方は性別ではなく個人の判断によってなされるものだ、というダイバージェントに近い思想があったのです。LGTBに対する見方も寛容な時代で化粧をする男性も珍しくなく、今から見るとかなり先進的な思想・思考です。現在行われている「男女共同参画社会」とした政策は、元々日本に存在していた価値観なのかもしれません。
紳士・レディーと区別した関係性ではありません。
しかし、レディーファーストにおける日本の価値観も変わりました。
人に優しくすること。ボランティア精神や、重いものを持ってあげたり、恋のキューピット役を演じたり、サプライズなどの行為は、人を幸せにするため・喜ばせるために想像力を働かせることが原動力になっています。
それは奉仕の精神であるクリスチャンの精神から来ている。外国人男性から優しくされたことをレディーファーストと捉えるのは現代日本人的発想であり、言葉だけが一人歩きしています。レディーファーストは距離の近い男女の間で行われる儀式的な行為に近い。欧州、欧米の都市部ではLGTBの問題もあり死語に近い文化でもある。それは男女を線引きしているからです。また、一方が優遇される構造は一方の幸せしか生まれません。レディーファースト(女性第一主義)とはファーストという文字通り階級思想に近いのです。
しかし、クリスチャンの精神に男女の隔たりはありません。
一つ一つの文化は国民レベルで作られるものです。女性第一主義という思想でこれからの時代を作っていけるだろうか。それは何の副作用もなく平和な社会を作れるだろうか。よく考えて欲しい。
日本は、グローバルな時代の中で「西洋文化・欧米文化」に大きく影響を受けてきました。
明治以降、男尊女卑が強く日本に反映されたのは、階級社会からくる西洋文化、欧米文化を日本人が誤った角度から取り入れた為であると考える。
これは男性だけでなく、女性も大きく誤認しており、互いにその間違いに苦しめられています。
明治以前の日本にも西洋のような階級社会が存在していた時代がありましたが、そんな社会の中で、人を階級で区別、差別する事への反発心から武士道精神が生まれたとも言われています。
西洋にも相手に敬意を表す行為として一部、お辞儀する習慣があるが、これは貴族間で振る舞う行為となる。あくまでも儀式的な習慣であり、民間レベルで浸透していません。西洋のお辞儀と日本のお辞儀では意味合いが違うのです。
たとえホームレスでも礼を尽くし、困っているなら情けをかける。これが武士道。
だが…なぜホームレスに礼をする必要があるのか?と考える人もいるだろう。
それはホームレスも社会の歯車の一部であり、自分が今ここに存在し、生きている事は、周囲全ての人々が存在してこそ今の自分が成り立っていると考えているからであり、生ある全ての者に礼を尽くす事は生きている事への感謝の意味もあります。
食に関しても武士道精神は影響しています。
西洋にも食事の前に神に祈りを捧げる習慣が一部残っているが、日本の食事では神のみでなく命を頂く動植物に対して礼をする精神となる。それは全ての動植物に神が宿ると考えるからであり、それが「いただきます」という言葉に込められている。
彼らの命を頂き次の糧とする。同じ命である以上、人間も動物も植物も対等という考えからだ。
西洋では動物を種で分類し階級を設けている。だからこそ、日本の捕鯨に対し警告を発している。
しかし、捕鯨に関して日本国内で日本人によるデモはほとんどありません。むろん、絶滅危惧種であれば問題だが、そうでなくとも哺乳類だからという理由で「他の命と差別すること」「命に階級設けること」は、日本的思想ではありません。
桜の花びら一つ一つに命が宿る、これが日本の命に対する美意識といえるでしょう。
また、将棋とチェスにも大きな違いがある。チェスでは白と黒に分けられており、敵か味方か、善か悪か、という解釈から成り立っているが、日本の将棋では敵の駒を取れば、自らの駒として使う事ができる。
日本の道徳心では、善か悪か、という解釈ではなく、たとえ対峙する者でも同じ命である以上、その命を無碍に奪うよりも、生かすことを考えます。
このことから命に対する根本的な考え方が違うのです。
料理に関しても魚の頭から大根の葉まで無駄なく使うのが日本料理の基本です。
食べ物を残さず食べるということは「もったいない」という人間側(欲)の解釈ではなく、他者に対する思いやりから生まれています。残すことは奪った命を無碍に扱うことになるからです。
一つの命を奪う時、その全てを生かすことがその命に対する最大の敬意といえるでしょう。
豪華絢爛ではなく、命を美しく彩ることが日本の美なのです。
今のヨーロッパとくにフランスでは10代~40代の女性を中心にオーガニック製品を積極的に取り入れたり、環境破壊になるような物はできる限り使わないように努めています。過去の江戸時代にあったようなエコな社会へ取り組み始めている。
国のスーパーマーケットを見ればその国の価値観が見えると言うが、今の日本のスーパーマーケットを見て何を感じるだろうか。
武士道精神は、成文化された書物があるわけでもないのに、何百年に渡って日本人のDNAに受け継がれてきました。
しかしながらここ近年、日本文化は様々な国の文化から強い影響を受けており、武士道精神を語れる日本人は極少数となっています。
過去50年、世界のグローバルな波について行こうとする日本の姿は正しかったのだろうか?武士道精神は、そんな現代の日本が抱える様々な問題を正しい方向へ導いてくれるかもしれない。
そしてなぜ世界が武士道精神を尊敬するのか…?それは彼らの世界がそれとは真反対の基礎から作られた環境にあるからです。
日本では、性善説でもなく性悪説でもなく、善悪は誰しも持ち合わせているという前提に立ち、境界線を引かない「和」精神が育まれてきました。それが日本文化の奥深さであると同時に、わかりずらさでもあるのです。
誰しも悪に陥る可能性を秘めており、自分の立ち位置、相手の立ち位置、自分の大儀、相手の大儀によっては善と悪の捉え方は大きく変わります。
この真理を突き詰めていくと境界線を引くことに何の意味もないことに気が付くのです。
これは罪を良しとするものではなく、境界線を引くことはさらに悪を増幅させているだけであり、また境界線を引いた側も別の形で境界線を引かれることになり、この負の連鎖は止まることはありません。そこから希望や光が生まれることはないのです。
故に日本では宗教戦争は一度も起きていません。
高度経済成長期を軸に考えれば明治以降に影響を受けた西洋文明が第二次世界大戦である意味リセットされ社会主義に立ち返るきっかけともなり高度経済成長期の礎を築きました。これは「社会主義では経済発展しない」という世界の常識を覆す形となりました。
しかし、バブル期へ向かうにつれ再び社会主義から脱却し貴族意識・ブランド意識の高まり・子供のブランド化・超学歴競争など西洋の階級思想に加えアメリカから来る資本主義思想へと邁進するのです。
どのようにしてバブルが崩壊したのかは問題ではありません。膨らみすぎた風船は遅かれ早かれ散るものです。
成長する中で、どのような文明を作り、何を残したのか、それが大事なのです。
今後日本が西洋・欧米文化文明を真似るには表面だけの物真似では逆に悪循環となってしまうでしょう。それは「失われた30年」を振り返ればわかることではないでしょうか。
しかし階級思想や資本主義というのは人々がマウンティングし合う競争原理から経済を発展させようというものです。その終着点にはかならず戦争が起こっています。その点も留意すべきでしょう。
日本の武士道精神、禅、道徳心は、今多くの国々で注目を集めているが、その日本文化を語れる日本人が少ないのも事実。
自国の文化を語れない者大きなか、そのスピリットは残っていくだろうか。
いかがでしたか?皆様の考える武士道精神のイメージと同じでしたでしょうか。
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